「今日はここまでにしましょうか」 「はーい」
家庭教師の声で、私はペンを走らせる手を止めた。
「オズワルド様、お疲れ様です」 「なんだもう終わりか? 全然物足りないな!」
ここ最近、オズワルドの勉強への意欲は上昇し続けている。 自分から延長を申し出たり、なかなかペンを置こうとしなかったり。
「この問題だけ解かせてくれ。ちょうど取りかかったところなんだ」 「あのオズワルド殿下がこんなにも勉強熱心に……! 本当にご立派になられました」
かつてオズワルドの逃げ癖に苦労していた家庭教師は、その変わりように涙を流していた。 私としても嬉しい限りだ。
「すみません。お手洗いに行ってきます」
一言断りを入れてから席を立つ。
(順調だな。うまくいきすぎて怖いくらいだ)
オズワルドの成長を喜びつつ、同時に警戒を強める。 経験上、うまく行っているときに限って変なイベントが起きることはままある。 なんとなくだが、そういうイベントが起こりそうな予感がしていた。 思い過ごしであればいいんだが……。
「ソフィーナ」
部屋に戻る途中、後ろから声をかけられる。
「アレックス殿下。ごきげんよう」 「誰もいない時にそういう挨拶はいいよ」
お泊りイベントを継続的に行っているおかげで、アレックスはずいぶん親しげに話をしてくれるようになった。 以前のルートでもある程度の関係は構築していたが、話をするタイミングが遅かったためここまでの仲にはなれていない。 幼少期の交流がいかに重要であるかを身をもって感じていた。
私はもちろん、お姉様との交流も、だ。
「すみません。私が殿下と親しくお話しするとお姉様がむくれるかもしれないので」 「れ、レイラの話はしてないだろっ」
悪戯っぽく言うと、アレックスは頬を赤く染めた。 お姉様との関係もAルートとは比べ物にならないほど親密になっている。 お泊りイベント様様だ。
(オズワルドと一緒のベッドで寝るという苦行を繰り返した甲斐があったな)
寝相の悪いオズワルドに何度も蹴り飛ばされたあの夜は無駄じゃなかった……と、胸中で涙を流す。
「ふふ、冗談ですよ」 「まったく君ってやつは……」 「それで、何かご用ですか?」 「ああ。オズについてちょっと相談があるんだ」
――面倒ごとの気配を感じ、私は頬が引きつる感触を覚えた。
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「—―という訳なんだけど」
アレックスの話を要約すると、こうだ。 先日から始まったオズワルドの運動訓練。奴はそれを「勉強が忙しいから」と休んでいるらしい。
「一応聞くけど、勉強は忙しい?」 「いいえ」
忙しいどころか、かなりハイペースで進んでいてしばらく自習でもいいくらいだ。 最近のオズワルドは居残りしてまで勉強しようとしていた。 私はようやく真人間になったんだと喜んでいたが……蓋を開ければ何のことはない。 運動から逃げたい一心で、勉強にしがみついているだけだ。
オズワルドには勉強だけでなく運動――ひいてはある程度、自分で自分の身を守る程度の力も身に着けてもらいたいと考えている。 その入口となる運動をサボっていては後が思いやられる。
「そういうことなら、今度からちゃんと参加するよう言いつけるよ。僕が顔を出せばオズも来るだろうし」 「いえ、ここは私に任せてください」 「任せてって……君も忙しいんじゃないかい? 花嫁修業と魔法も習っているんだろう」 「殿下ほどではありませんよ」
アレックスは現在十六歳。 まだ学生の身分だが、すでにいくつかの国営事業は彼の手に委ねられているはずだ。 オズワルドに時間を使ってほしくない――という気持ちから、私はこの件を自ら請け負うことにした。
「私はオズワルド様の婚約者ですから!」 「……ありがとう。君は本当にオズを大切に思ってくれているんだね」 「もちろんですー!」
オズワルドを真人間に育てたいという気持ちは本物だ。 たぶん、アレックスが考えている理由とは違うけれど。
▼
少し早いが、私もオズワルドと共に運動訓練を始めることにした。 まるで私が参加表明するのを待っていたかのように、オズワルドは運動をサボらなくなった。
「ソフィーナ! 走るぞ!」 「待ってください、オズワルド様ー」
勉強や魔法とは違い、運動能力はいくらループしても引き継げない。 いまは正真正銘、十歳女子の筋力・体力しかない。
さすがに十二歳男子が行うメニューを軽々こなすには無理があった。
「ぜぇ……はぁ……」 「なんだもう息が切れているのか! だらしのない奴め!」 「……」
いつもなら怒りのまま心の中で罵倒するところだが、その気力すら沸かない。 ていうかそんなに体力あるなら運動サボるなよ。 楽勝だろうが。
「ほらほら置いていくぞ! もっと早く早く!」 「ぜぃ……ぜぃ……」
その後もオズワルドは嬉々としてメニューを消化し、私はやーいやーいと馬鹿にされ続けた。
▼
家に戻り、倒れるようにベッドへ寝転がる。
「しんど……」
急に運動を始めたせいで身体の節々が悲鳴を上げている。 明日の朝、目を覚ますのが恐ろしい。
まあ、いずれ私も戦闘訓練をしないといけなくなるから、そのとき楽になると思えばいいか。
「なるべく痛くなりませんように」
私は両手両足を軽くマッサージしてから眠りについた。 体力のほとんどを使い果たしたせいか、目を閉じて数秒ほどで眠りに落ちた。
▼ ▼ ▼
「ソフィーナ、ソフィーナ、起きて」 「……なんだよぉ」
ゆさゆさと揺り動かされ、私はまどろみから無理やり引っ張り上げられた。 目をこすると、目の前にはノーラがいた。 彼女の肩越しに、壁に掛けられた時計を見やる。
(げぇ。もう七時じゃないか)
時計の短針は、無情にも起床時間を過ぎていた。 まだ全然眠い。 私は布団を被り直し、ノーラに背を向けた。
「頼む。今日だけあと五分寝させてくれ」 「えぇ? ……それはいいんだけど」
困ったようなノーラの声。
「起きたら教えてね。どうして急に戻ったのか」
「ッ!」 「わっ」
ノーラの一言で飛び起きる。 どうして彼女がここにいるのか。 眠すぎて気にもならなかった疑問が、改めて今の状況がおかしいことを露骨に示していた。
机の上にあるカレンダーの日付を見ると。
「……なんで」
ちょうど二年前のセーブポイントに戻っていた。
「どうしたのソフィーナ。なんだか様子がへんだよ」 「……ない」 「え?」 「私は戻ってない」
私はあの日、疲れて眠っただけだ。 ループを発動させた記憶なんてないし、そんな状況でもなかった。 なのに戻っているということは「戻れ」と言う以外のループ条件を満たしたことになる。
つまり。
「私は眠っている間に死んだ」 「そ、それって……」 「ああ」
ようやく事情が呑み込めたノーラに、私は奥歯を噛みしめながら告げた。
「イベント発生だ」