オー爺から魔法の講義を受けた後、いつものように馬車に乗り、道中で学園を睨み、家路についた。
扉を開けると、玄関前のホールを歩く母の後ろ姿が見えた。
「お母様。ただいま戻りました」 「……」
私の声が聞こえる範囲だったにも関わらず、母は何も返さずその場を通り過ぎた。 すぐに察する。
(あ、これは機嫌が悪いな)
母は良くも悪くも態度が表に出やすい人間だ。 機嫌が悪ければそれが仕草や態度に現れる。 意図的に無視したり、扇で顔を覆ったり、何でもないことに目くじらを立てたり。
母の機嫌に関しては全く予測不能で、毎度無作為に変化する。 予測ができないぶん分かりやすいので、先に挙げたような「不機嫌のサイン」を見逃さないようにするしかない。
(今日は大人しくしておくか)
あの状態の母に関わると余計な心労を抱えることになる。 強制的に顔を合わせなければならない夕食までには機嫌が直っていますように――と胸中で願う。
物音を立てないよう、気持ちゆっくりめに歩いて自室に続く階段を上がろうとすると。 二階の扉が開き、とたとた……と、可愛らしい足音がした。
「ソフィーナ、おかえりなさい!」
手すりから身を乗り出し、お姉様が手を振ってくれた。
「お姉様。ただいま戻り――」 「レイラ!」
後ろから母の鋭い声がして、私の肩越しにお姉様を突き刺した。 びくり、とお姉様の肩が揺れる。
「なんですか、バタバタとみっともない! 公爵令嬢としての自覚が足りていないわよ!」 「も、申し訳ありません……」
お姉様を一喝してから、私の方を睨む。
「ソフィーナ! 帰ってきたのに挨拶もないとはどういうことですか!?」 「申し訳ありません」
挨拶したのに無視したのはどこのどいつだよ! ――なんて言っても意味がないことはよく知っている。
機嫌が悪いときの母はとにかく理不尽なのだ。 前回機嫌が悪かったときは物音を立てずに歩くお姉様に対し「元気がない」と正反対のことを言っていた。 自然災害と対話ができないように、今の母とも対話は不可能だ。 頭を低くして、嵐が過ぎ去るまで耐えるしかない。
「まったく……!」
母は眉を不快そうに歪めたまま、鼻を鳴らしてその場を去っていった。
「ソフィーナ、大丈夫?」 「私はだいじょーぶです。お姉様こそ」
お互いに身を寄せ合い、理不尽な感情をぶつけられたことを慰め合う。
(くそ、私だけならともかくお姉様にまで暴言吐きやがって)
こみ上げる怒りを、お姉様にしがみつくことで鎮める。
いま、母に逆らうことは簡単だ。 しかし、一度でもそれをしてしまうと家族関係は間違いなくこじれる。 母とはこれからもずっと顔を突き合わせて生活しなければならない。 そんな相手と私が険悪な関係になれば、お姉様は心労をため込んでしまう。 子供の時期における家庭環境は、それだけ大切なのだ。
家庭の不和はお姉様をゆっくりと蝕み、数年後かけて死のイベントという形を成す。 それを防ぐには、母の癇癪をうまくやり過ごさなければならない。
これが健全な家庭環境とは口が裂けても言えないが、それでも今が一番『まし』な状態だ。
お姉様に降りかかる理不尽はすべて取り払いたい。 そう願いはしても、実現できない。 私は無力だ。
「私も平気よ」 「お姉様にあんなことを言うなんて。機嫌の悪いお母様はキライです」 「そんなこと言っちゃダメ。たった一人のお母様なんだから」
理不尽の塊でしかない母に対してもお姉様は優しい。 あんな奴からお姉様のような天使が生まれるなんて、本当に奇跡としか言いようがない。
「それより聞いて。この間アレックス殿下からお借りした魔法の本なんだけど、ちょっと気になる箇所を見つけたの。ソフィーナに聞いてほしくて、帰ってくるのをずっと待ってたんだから」
お姉様と魔法の話ができる相手は限られており、イグマリート家の中だと私しかいない。 必然的にこの二年間、姉妹の話題は魔法に関することばかりになっていた。
お姉様を守るための手段という位置付けではあるものの、私も魔法は嫌いじゃない。 クレフェルト王国は魔法に関しての理解が浅い後進国だ。 他国であれば素養があると分かった時点で、貴族だろうと関係なく魔法を学ばせる。 魔法よりも花嫁修業優先、なんてことがまかり通るのはこの国だけだ。
魔法というものの価値が、本来に比べて低く見積もられている。 だから研究も何もかも、他国から数歩ほど遅れている。
そういった事情を差し引いても、魔法には謎が多い。 調べれば調べるほど新しい発見があり、それまでの常識を覆し、そして新たな謎を提供してくれる。 これほど研究のし甲斐がある対象もそうないだろう。
「でね、こっちの本だと精霊魔法は西大陸からもたらされたものってなっているんだけど、それだと矛盾するのよね」 「—―っ」
楽しく聞いていたお姉様の話の中に出てきた忌まわしい単語に、私の中の何かが反応する。
西大陸。 お姉様を殺す最大最強の敵。 国土も、技術も、資源も。クレフェルト王国を含めた周辺諸国をすべて合わせても勝る、まぎれもない超大国。
馬が鼠を踏み潰すように、争いになった時点で敗北が確定する。 だから争いが起こらないように回避策を探し続けているが――。
(……そういえば。西大陸はどうしてクレフェルト王国を狙うんだろう)
こう言っては何だが、クレフェルト王国は西大陸にとってわざわざ狙う価値のない小国だ。 西大陸に比べれば国土は小さく、技術も未熟で、資源も乏しい。 たとえ戦争に勝ったところで、かの国が得られるものなんて無いに等しい。 なのに毎回狙われている。 レムシャット王国でもなく、オルデンブルグ王国でもなく、クレフェルト王国を。
(考えても仕方がないか)
ここは神々の遊び場。箱庭の中の世界だ。 理由なき理不尽なんて当たり前のようにやってくる。 母の機嫌を予測できないように、戦争も予測できない。 だからこうして総当たりで回避策を探しているんじゃないか。
「ソフィーナ。聞いてる?」 「もちろんです。私がお姉様の話を聞き逃すはずないじゃないですか」
余計なことは考えないようにして、今を集中しよう。