最愛のお姉様が悪役令嬢だったので、神が定めた運命(シナリオ)に抗います

#103 第七話「既知の未知」


「……」

 私の声に、相手からの反応はなかった。  暗闇に目が慣れているとはいえ、さすがに数メートル離れた相手の顔を視認できるほどではない。  ではないが、シルエットを見ただけで直感した。

 スイレンじゃない。

「……」

 影が腕を振り上げ、ベッドのふくらみに持っている何かを叩きつけた。  ざり、と布が破ける音がした。  刃物を持っていることは明らかだ。

(まさか)

 背格好はスイレンに似ている。  けど、奴じゃない。  かといって知らない人物――唐突にやって来た他国の暗殺者――でもない。

「どうして……」

 タイミングよく曇り空の隙間から月が顔を出し、窓から光が差し込んだ。  輪郭がぼんやりと分かるようになる程度の、本当にわずかな明かりだったが、相手はそれで判別ができるほどよく知る人物だった。

「……お母様」

 ▼

 深夜、部屋に忍び込んできたのは母だった。  子供の寝顔を見に――なんて可愛い理由ではない。  幾度も繰り返してきたループの中で、母がそのような行動をしたことは一度もなかった。

「それはこっちのセリフよ、ソフィーナ」

 母は、うっすらと微笑んでいるように見えた。  機嫌の良いとき特有のやや高めの声で――ずぼ、とベッドからナイフを引き抜き、ざり、とまた刺した。

「どうしてそんなところに隠れていたの?」

 その動作を繰り返す。  ざり、とナイフが刺さり、ずぼ、とそれを抜く。

「どうしてここで寝ているように細工しているの?」

 ざり。  ずぼ。

「あなたは昔からそうよねぇ。勘が良いというかなんというか。まるで――」

 ざり。  ずぼ。

「未来が見えているみたい」

 ざり!  ひときわ強い力でナイフを突き立て、反復動作は終わった。

「どうしてかしら? まさかとは思うけれど……あなた、知っていたの? あの人がいけないことをしているって」 「……」

 母のこの物言い。  知っている。  私はこのイベントを、知っている。

(浮気イベントだ)

 父の浮気イベントの中の、いくつかあるバッドエンドの一つに「母の暴走」がある。  発生の条件は『母に浮気をしていることがバレる』ことだ。  しかし……。

(ここまで酷くなったことはないぞ!?)

 浮気の件を母が知ってしまうと、彼女は周囲――特に、お姉様――に当たり散らすようになる。  その理不尽さ、苛烈さによってお姉様は次第に心を病み……というのが私の知る浮気イベントの王道なバッドエンドだ。  他には父を問い詰める際、誤って殺してしまう(あるいは殺されてしまう)バッドエンドもある。

 ――しかし、夜中にナイフを持って私の部屋に来たことなんてない。  いくら母が感情的とはいえ、そこまでの凶行に及ぶほど頭のねじは飛んでいないはずだ。

 スイレンのような未知のイベントじゃない。  既知のイベントだが、結末だけが変化している。

「知っていたのね? 知っていたんでしょう? そうなんでしょう!?」

 ナイフの突き立てを再開しながら、母は勝手に現実を捻じ曲げていく。  暴走の引き金を引いてしまっている以上、やり直すしかない。

(—―いや)

 セーブポイントに戻ろうとして、開きかけた口を閉じる。  母が暴走した原因は分かった。  しかし、なぜこの時点で母が父の浮気を知ってしまったのか。  それを明らかにしたほうがいい。

「お母様。何を言っているのか分かりません。落ち着いてください」 「落ち着け……落ち着けですって?」

 数メートル離れた私の元にまで届くほど、母が奥歯を食いしばる音がした。

「これが落ち着いていられるものですかッ!」 「大きな声を出さないでください……! みんなが起きちゃいますよ」

 隣の部屋ではお姉様が寝ている。  目を覚ましてこちらに来てしまい、母の矛先が変わってしまったら……そう考えると恐ろしくて、私はとにかく母を落ち着かせようと努めた。

 そんな私に、母は、にぃ、と笑みを深めた。

「それなら大丈夫よ。起きてくる人は誰もいないわ」

 そう断言する母の言葉が、心の中に冷たく突き刺さった。

「どういう、意味ですか」 「言葉通りよ。みんなもう起きてくることはないわ。永遠に」 「……」 「寂しがることはないわ。さあ、一緒に――」

 もっと情報を引き出さないと。  そんな考えは、一瞬で灰になって消えた。

「『精霊の友よ。の者と共々ともども獄炎ごくえんの演舞を』」

 私が魔法の反動に苦しむ時間と、母が炎でのたうち回って息絶える時間はほぼ同じだった。

 ▼

 あれだけの断末魔を上げていたのに、誰一人来ない。  父も、当直の使用人も。  何より、隣の部屋で眠るお姉様も。

 それだけでもう答え合わせは済んでいるようなものだが……確認しなければならない。  奇病の時はお姉様の死から目を逸らし続けたばかりに、不用意にお姉様を苦しめることになってしまった。

 このイベントをクリアするヒントが隠されていないかと、自分の失敗を胸に刻むため――私はお姉様の部屋に入った。

「……お姉様」

 明かりを向けると、鮮やかな赤色が見えた。  首が半分切り裂かれ、そこから溢れる血が布団に彩を足している。

 母の言葉は、本当だった。  これでは……起きることなんてできやしない。

「お姉様」

 暴れた形跡はない。  幸いなことに、苦しむことなく逝ったらしい。

「お姉様」

 手を握る。  まだ暖かさは残っていたが、生きる者としての『何か』を失った手だ。少しだけ軽い。

「お姉……様ぁ」

 お姉様の手にすがりついても、もう目を開けてはくれない。  「しょうがないわね」と慰めてくれることもない。

「ごめんなさい。また私は、失敗しました」

 今回だけじゃない。  きっと前回も、知らなかっただけでお姉様は殺されていたのだろう。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 私は謝った。  謝って、謝って、謝って。そして泣いた。

 眠るように息絶えるお姉様に祈りを捧げてから、立ち上がる。  こんな結末を、私は認めない。

 神が定めた運命シナリオを変えるために、私はまたいつもの言葉を口にする。

「—―戻れ」