「……」
私の声に、相手からの反応はなかった。 暗闇に目が慣れているとはいえ、さすがに数メートル離れた相手の顔を視認できるほどではない。 ではないが、シルエットを見ただけで直感した。
スイレンじゃない。
「……」
影が腕を振り上げ、ベッドのふくらみに持っている何かを叩きつけた。 ざり、と布が破ける音がした。 刃物を持っていることは明らかだ。
(まさか)
背格好はスイレンに似ている。 けど、奴じゃない。 かといって知らない人物――唐突にやって来た他国の暗殺者――でもない。
「どうして……」
タイミングよく曇り空の隙間から月が顔を出し、窓から光が差し込んだ。 輪郭がぼんやりと分かるようになる程度の、本当にわずかな明かりだったが、相手はそれで判別ができるほどよく知る人物だった。
「……お母様」
▼
深夜、部屋に忍び込んできたのは母だった。 子供の寝顔を見に――なんて可愛い理由ではない。 幾度も繰り返してきたループの中で、母がそのような行動をしたことは一度もなかった。
「それはこっちのセリフよ、ソフィーナ」
母は、うっすらと微笑んでいるように見えた。 機嫌の良いとき特有のやや高めの声で――ずぼ、とベッドからナイフを引き抜き、ざり、とまた刺した。
「どうしてそんなところに隠れていたの?」
その動作を繰り返す。 ざり、とナイフが刺さり、ずぼ、とそれを抜く。
「どうしてここで寝ているように細工しているの?」
ざり。 ずぼ。
「あなたは昔からそうよねぇ。勘が良いというかなんというか。まるで――」
ざり。 ずぼ。
「未来が見えているみたい」
ざり! ひときわ強い力でナイフを突き立て、反復動作は終わった。
「どうしてかしら? まさかとは思うけれど……あなた、知っていたの? あの人がいけないことをしているって」 「……」
母のこの物言い。 知っている。 私はこのイベントを、知っている。
(浮気イベントだ)
父の浮気イベントの中の、いくつかあるバッドエンドの一つに「母の暴走」がある。 発生の条件は『母に浮気をしていることがバレる』ことだ。 しかし……。
(ここまで酷くなったことはないぞ!?)
浮気の件を母が知ってしまうと、彼女は周囲――特に、お姉様――に当たり散らすようになる。 その理不尽さ、苛烈さによってお姉様は次第に心を病み……というのが私の知る浮気イベントの王道なバッドエンドだ。 他には父を問い詰める際、誤って殺してしまう(あるいは殺されてしまう)バッドエンドもある。
――しかし、夜中にナイフを持って私の部屋に来たことなんてない。 いくら母が感情的とはいえ、そこまでの凶行に及ぶほど頭のねじは飛んでいないはずだ。
スイレンのような未知のイベントじゃない。 既知のイベントだが、結末だけが変化している。
「知っていたのね? 知っていたんでしょう? そうなんでしょう!?」
ナイフの突き立てを再開しながら、母は勝手に現実を捻じ曲げていく。 暴走の引き金を引いてしまっている以上、やり直すしかない。
(—―いや)
セーブポイントに戻ろうとして、開きかけた口を閉じる。 母が暴走した原因は分かった。 しかし、なぜこの時点で母が父の浮気を知ってしまったのか。 それを明らかにしたほうがいい。
「お母様。何を言っているのか分かりません。落ち着いてください」 「落ち着け……落ち着けですって?」
数メートル離れた私の元にまで届くほど、母が奥歯を食いしばる音がした。
「これが落ち着いていられるものですかッ!」 「大きな声を出さないでください……! みんなが起きちゃいますよ」
隣の部屋ではお姉様が寝ている。 目を覚ましてこちらに来てしまい、母の矛先が変わってしまったら……そう考えると恐ろしくて、私はとにかく母を落ち着かせようと努めた。
そんな私に、母は、にぃ、と笑みを深めた。
「それなら大丈夫よ。起きてくる人は誰もいないわ」
そう断言する母の言葉が、心の中に冷たく突き刺さった。
「どういう、意味ですか」 「言葉通りよ。みんなもう起きてくることはないわ。永遠に」 「……」 「寂しがることはないわ。さあ、一緒に――」
もっと情報を引き出さないと。 そんな考えは、一瞬で灰になって消えた。
「『精霊の友よ。彼の者と共々に獄炎の演舞を』」
私が魔法の反動に苦しむ時間と、母が炎でのたうち回って息絶える時間はほぼ同じだった。
▼
あれだけの断末魔を上げていたのに、誰一人来ない。 父も、当直の使用人も。 何より、隣の部屋で眠るお姉様も。
それだけでもう答え合わせは済んでいるようなものだが……確認しなければならない。 奇病の時はお姉様の死から目を逸らし続けたばかりに、不用意にお姉様を苦しめることになってしまった。
このイベントをクリアするヒントが隠されていないかと、自分の失敗を胸に刻むため――私はお姉様の部屋に入った。
「……お姉様」
明かりを向けると、鮮やかな赤色が見えた。 首が半分切り裂かれ、そこから溢れる血が布団に彩を足している。
母の言葉は、本当だった。 これでは……起きることなんてできやしない。
「お姉様」
暴れた形跡はない。 幸いなことに、苦しむことなく逝ったらしい。
「お姉様」
手を握る。 まだ暖かさは残っていたが、生きる者としての『何か』を失った手だ。少しだけ軽い。
「お姉……様ぁ」
お姉様の手にすがりついても、もう目を開けてはくれない。 「しょうがないわね」と慰めてくれることもない。
「ごめんなさい。また私は、失敗しました」
今回だけじゃない。 きっと前回も、知らなかっただけでお姉様は殺されていたのだろう。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
私は謝った。 謝って、謝って、謝って。そして泣いた。
眠るように息絶えるお姉様に祈りを捧げてから、立ち上がる。 こんな結末を、私は認めない。
神が定めた運命を変えるために、私はまたいつもの言葉を口にする。
「—―戻れ」