数え切れない失敗の中で、私は何度も死を体験した。 窒息死、失血死、転落死、溺死、轢死、焼死。 こと死ぬシチュエーションだけ見れば、お姉様に引けを取らないほどだ。
もちろん刃物で刺されたことだって何回もある。 近い記憶で言えば、スイレンに水の刃で心臓を刺されて殺された時だ。 水の刃で斬られたことはなかったので、かなり独特な感触だったと記憶している。
そういった経験があるので、刃物で斬られた時、感触でおおよそどれくらいの傷かが予想できる――という特技を持っている。 日常生活をしていたら全く役に立たないものではあるが、戦闘中はけっこう役に立つこともある。
「――ぐッ!」
鈍い痛みに、私は反射的にうめいた。
(斬られた? ……いや、それにしてはぜんぜん痛くない)
前述した経験から、刃物で傷つけられた痛みではないとすぐに分かった。 痛覚は刺激されたが、それは上からではなく、下。 椅子ごと横に倒された拍子に、頭を地面にぶつけたんだろう。
そして私の上には、誰かがのしかかっていた。 正体不明の人物が横から割って入ったおかげで、私はエレナのナイフから逃れたらしい。
私を庇い、降り注ぐ危険から守ってくれる。 どこかで見たことのあるシチュエーションに、全身から血の気が引いた。
「お、お姉――」
反射的にお姉様と呼びそうになって、すぐに違うことが分かった。 お姉様は私の身体をまるごと包めるほど大きくはない。
「ぐ……うぁ!」
私を庇ったのは、父だった。
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「れ、レブロンさん!?」
父のうめきと共に、私の頬に何かが垂れてくる。 ――血だ。
父がいつも着ているウエストコートとシャツが破れ、そこから血がぽたぽたと滴り落ちている。 出血はそこまで酷くなさそうだが、止血したほうがいいだろう。
エレナからは敵意が消失し、混乱の気配がありありと見て取れる。 襲い掛かってくることは、おそらくない。
(—―あれ)
しかしどうしたことだろう。 私の身体はぴくりとも動かない。
止血方法が分からない訳ではない。 適切な治療法も、それこそ嫌と言うほど練習する機会はあったのでむしろ得意と言えるほどなのに。
まるで貧血を起こしたように動けない。 それでも動けと念じていると、手がわずかに動き、父の服を、きゅ、と掴んだ。
「ソフィーナ。大丈夫だ」
父はそれをどう受け取ったのだろう。 無事な手で私の頭を撫でた後、痛みに歯を食いしばりながら抱きかかえてくれた。
「エレナ。私の娘に、何をするつもりだった」 「あ……ち、違うの!」
エレナが慌ててナイフを手放す。 彼女の足元で、血の付いたナイフがカランと音を立てた。
「そ、そう! 私はただ、ソフィーナちゃんとお話をしていただけで」 「こんな状況でよくそんなことが言えるな」 「ひっ……」 「家族には近づくな、と再三言ったはずだろう!」 「っ!」
父の怒声に、エレナがびくりと震える。
「……う。ひっぐ」
次第にじわりと涙を浮かべ、それがぽろぽろと頬を伝い落ちていく。 意図せず大好きな人を傷つけてしまい、反省したのかと思いきや、
「……レブロンさんが悪いんだから」 「なん……だと?」 「急に関係をやめようなんて酷いじゃない! だから、だからこうするしかなかったのよ!」 「ソフィーナは何の関係もないだろう! こんなにも怯えさせて……」
ぎり……と、奥歯を噛みしめてエレナを睨む父。 怯えているのではなく、なぜか動けないだけなのだが……それを弁明することもできない。
「あなたと表に出せない関係を結んでいたのは私だ。刃を向けるなら私に向けるべきだろう」 「違う……違うの。私はこんなことをしたかった訳じゃ……」 「話は後で聞く。警備兵の詰め所に行くぞ」
父が手を差し伸べる。 エレナはその手を取らない。ガシガシ、と髪を掻きむしる。 ――嫌な予感が、した。
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
同じ行動、同じ言葉を繰り返すエレナ。 正論を受け止めるには、正常な判断力が必要になる。 冷静さを失った人間にとって、正論は凶器のように感じられるだろう。 父の言葉はまさに正論だが、それを今の彼女は受け止められるのだろうか。
「……あ、わかった。わかったわ」
ぴたり、とエレナは手を止める。 だらりと下げた指の間には、抜け落ちた髪の毛がごっそりとこびり付いていた。
冷静さを欠いた人間は、自身の行いを正当化しようとしてとんでもない結論を導くことが往々にある。 エレナが自分に甘い、とかではなく、人間とはそういう風に作られているのだ。
「ソニアがあなたに変なことを吹き込んだのね? でないとあんなにも私を愛してくれたあなたが心変わりするなんてありえないわ。何度も言ったじゃない。妹はあなたを見栄を張るための道具にしか見ていないのよ? 本当にあなたを愛しているのは私だけなのよ?」
やはりというか、エレナはとんでもないところに結論を持って行ってしまった。 落としたナイフを拾い上げるエレナ。 髪を掻きむしった際に皮膚まで傷つけたのか、頭頂部から血を流していた。
「あのクソ妹、いつもいつも私の幸せを邪魔しやがって……! レブロンさんが優しいから今まで見逃してやっていたけれど、さすがにもう限界だわ。私とレブロンさんが幸せになるためには、あいつを消すしかない」 「おい、私とあなただけの問題だと言っただろう!? ソニアもソフィーナも、無関係――」
立ち上がろうとする父の太腿に、エレナはナイフを突き立てた。
「ぐあああああ!?」 「レブロンさんはここで待っていてください。妹を始末した後、私が、あの女にかけられた洗脳を解いてあげます」
立ち上がれなくなった父の後頭部にキスをするエレナ。
「ふふ。愛していますよ」
蠱惑的な笑みを浮かべ、くるりときびすを返した。
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父は大怪我を負い、母に危険が及ぼうとしている。 たとえエレナを止めたとしても、家庭内の不和は免れられないだろう。 状況は『詰み』に近い。
『戻る』べきなのだが……依然として私は何もできないままでいた。 年齢相応の子供のように、父の服を掴んで震えるだけ。
「大丈夫だ、ソフィーナ」
また父が、私の頭を撫でた。
「もう、この件は終わりにしよう」 (え?)
どういう意味だろうか。 父の言葉の真意を探していると、エレナの悲鳴が聞こえた。
「何よあんたたち……離しなさい、離せぇ!」
エレナと数人がいがみ合うような喧騒が聞こえたのち、どたどたと足音がした。 現れたのは、数人の警備兵だ。
「レブロン卿! ご無事ですか!?」
あまりにもタイミングの良すぎる介入に、私は思わず父を見上げた。
「エレナがソフィーナを連れ立ったと聞いて、場所を突き止めたあと……あらかじめ表に待機させておいた」
に、と力なく笑う父。 痛みで意識がもうろうとしているらしい。
「うわ、ひどい出血だ!」 「私はいい。それよりも、ソフィーナ……を」 「おおい! 担架を持ってきてくれ!」
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こうして、私が呆けている間にこの一件は一応の解決を見た。 しかしまだ浮気イベント自体は終わっていない。
この件を知り、母はどういう反応をするのか。 それ次第では、またやり直す必要がある。